【『ジョーカー』の感想を友人と語って思ったこと、乱文】映画作品、主観でみるか客観でみるか | The Bird's Nest Hair  

【『ジョーカー』の感想を友人と語って思ったこと、乱文】映画作品、主観でみるか客観でみるか

「ジョーカー、ハッピーな映画だった!」

僕は、友人からのその感想に耳を疑った。

「『ジョーカー』はハッピーな映画」

そんなレビューはネット上のどこを見渡しても存在しない。少なくともこの1週間、考察を読み漁っている僕の目にはまだ届いていない。

しかし友人は続けて言うのだ

「う~ん、正直イマイチだったかな。心揺さぶられるとかもなかったし、主人公の何が不幸か理解できなかった。むしろあの人幸せだよね?すごいハッピーな映画だと思ったよ」

聞き間違いではなかった。やはり、友人は「『ジョーカー』はハッピーな映画」だと繰り返す。

マジか…。僕は絶句した。

イマイチという感想は、映画というのは人それぞれだから、まぁ分かる。分かるというか、仕方ないと思う。合う合わないは当然ある。

ただ、あの作品を”ハッピー”だと捉える友人の脳みそが、僕にはどうしても理解できなかった。

しかし、友人と話をするうちにある一つの答えというか、確信にたどり着くことができた。


結論から言えば、

人には「接写レンズ」と「広角レンズ」の2パターンが存在するよね、という、ただそれだけの話です、この記事の2,500字は。

「悲劇も喜劇も、すべては自分次第。すべては主観だ。」

劇中の台詞そのままのことでしかないのだが、この言葉を強く実感した、という話です。

あなたは「接写レンズ」?それとも「広角レンズ」?

件の友人というのは女性なのだが、彼女を一般的な価値観や規定と照らし合わせると”変わり者”ということになるのだと思う。

友人を、仮にMさんとしよう。

Mさんは、とても綺麗な顔立ちでありながら決して男受けを狙わないファッション(そこには、彼女独自の美学とセンスが反映されている)をしていて、時折、意味不明な行動や言動を繰り返す突拍子の無さ(それを実行に移してしまうネジのはずれ具合)がある女性だ。

まぁ、普通ではない人だ、色々と。僕がこれまで出会ってきた人物の中で断トツに個性的(この言葉はあまり好きではないが)な人だ。


以下に、彼女とのLINEを掲載する。(もちろん許可は得ている)

そう、彼女は全編にわたって『ジョーカー』をアーサー・フレックの目線で追っていたのだ。

もっというと、『ジョーカー』を自分の物語、自分の目線で鑑賞している。

なんだ普通のことじゃん。そう思う方もいるかもしれない。

たしかに『ジョーカー』という映画の構造上、物語はアーサーの視点で進んでいく。観客はアーサーの視線で物語を追うことになる、なるのだが…

しかし、あの憐れな男の物語を”完全に自分事”として捉えて鑑賞することができる人が、果たしてどれほどいるだろう…

僕には自分ごととして観ることはできなかった。

アーサーを可哀想な奴だと思い同情する、降りかかる悲惨な事実の連続に感情移入してしまう…

そう、そもそも感情移入なんて自分事として捉えていない証なわけだ。自分事として物語を追えるなら、わざわざ感情を移入する必要なんてない。だって自分のことなんだから。

僕は『ジョーカー』というアーサー・フレックの物語を客観的に見ていたからこそ、心打たれた。救いのない憐れな男が最恐の道化師に覚醒する瞬間にゾクゾクした。(この物語が妄想かどうかはひとまず置いておいて)

劇中に「悲劇も喜劇も、すべては自分次第。すべては主観だ。」という言葉が出てくる。

これは、かの喜劇王チャーリー・チャップリンの名言、「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇。」が下敷きになっている台詞だ。

まさにそうだ。

僕は、『ジョーカー』を”客観”的、つまり、離れた視線、引いた目線だからこそ、”悲劇”の物語として受け取った。

しかしMさんは違う、どこまでも自分ごと、完全に”主観”で見ていたからこそ、この物語をハッピー、つまり”喜劇”だと捉えたわけだ。

自分ごととして捉えるとするなら、どうだろう、この物語は確かにそれほど面白くないのかもしれない。


アーサーの立場に立つことができる人は、人生においてどうしようもなく悲惨な現実やどん底を味わった者だけの、言葉は悪いが所謂社会的弱者だけだと思っていた。その人たちだけが、真にアーサー側に立って鑑賞することができる、僕はそう考えていた。

しかし、違った。違ったのだ。

なぜなら、Mさんは社会的弱者じゃない。

人生のおいてそこまで悲惨な現実を味わったことはないというし、むしろ自分はとても恵まれている側だという。

確かに僕も彼女自身をそう思う。容姿端麗で実家も裕福な家系、とても恵まれれている、映画でいえばアーサーに撃たれるサラリーマン側の人間なのだ、確実に。

しかし、Mさんはアーサー・フレックの気持ちで観ることができる。

思えばこれまでもそうだった。

彼女と映画の感想を話すとき、彼女はその物語をまるで自分ごとのように話す。


アーサーの物語を主観的に受け取ることに、「人生のバックボーン」なんて関係なかった。

映画を観る目線が、「接写レンズ」か「広角レンズ」かの違いでしかなかったのだ。(そして、そのレンズは決して付け替えができない)

このレンズの違いを今回のMさんとの話しで、ありありと実感した。

僕のレンズは確実に広角レンズだ。

あらゆる芸術を客観的に楽しんできた。

映画や他人の作り出した芸術(音楽・漫画・アニメなど)にひどく影響を受けるのは、どこまでもその物語を客観的に捉えているからなのだと、今回気が付いた。

かのマーティン・スコセッシはこういった。

「人間の感情や肉体的な経験を他の人に伝える芸術こそだ映画だ」

そう、映画とは他人の人生を映し出すものなのだ。

しかし、Mさんのように、映画やその他の芸術を自分ごとに捉えることができる人が稀にいる。接写レンズの持ち主が。

接写レンズ、これ、言葉や文章ではとても説明しにくいのだが、Mさんは物語を本当に自分ごととして捉えている。例えばFPSゲームの完全主観モードのような。キャラクターの背中から世界を見ているのではなく、画面に映るのはキャラの手足だけみたいな、例えるならそういうことなのだと思う。

ちなみに接写レンズ:広角レンズの割合は、たぶん右利き:左利きくらいの割合なんじゃないかと思う。

なぜなら、この世のほとんどの芸術は広角レンズ用に作られているから。


どっちが良くてどっちが悪いとか、そういう話ではなく、「なるほど~」と一人で勝手に納得した、というだけの話。

おそらくレンズの付け替えは出来ない。

これからも僕は、芸術を他人ごととして受け取り、そしてまるで自分ごとのように感動して影響を受け続けるんだと思う。

きっと僕は、芸術を完全に主観的に”寄り”で受け取ることはできない。

レンズの付け替えは出来ない。

大切なことは、レンズが曇らないように感性を磨き続けることなんだと思う。

明日は3回目の『ジョーカー』鑑賞にいってきます。